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 下之郷遺跡はどんな遺跡?
遺跡の発見と広がり
下之郷遺跡は、滋賀県守山市下之郷町で発見された弥生時代中期の大規模環濠集落です。
昭和55(1980)年、下水道工事のときに弥生時代の遺跡があることがわかりました。
その後の調査により、幅の広い環濠(幅5〜8m)が、集落のまわりに3重、一部には、さらに外側に3重、巡らされていることが発見され、多重環濠集落と判定しました。想定される集落の規模は、東西330m、南北260m、面積はおよそ7haにおよびます。
さらに、その外側にも生活の痕跡や濠が残されており、外周辺まで含めた遺跡全体の規模は約25haにおよび、弥生時代中期の集落としては県下最大、全国でも屈指の規模を誇ります。
平成14年3月に国指定史跡となり、保存と活用を図るために、平成22年には環濠が巡らされている場所に下之郷史跡公園が開設されました。
下之郷遺跡

周辺にある遺跡

下之郷遺跡の周辺には、同時期ないし少し時期の差がある弥生中期の遺跡がいくつもあります。
図に、下之郷遺跡と周辺の遺跡の位置関係を示してあります。
南側にある吉身西遺跡は、下之郷遺跡発見の前より判っていました。北東部の酒寺遺跡は、下之郷より少し遅れて遺跡の存在が判り発掘が始まりました。東側に位置する二ノ畦・横枕遺跡、播磨田東遺跡は、下之郷が衰退した後に出現するムラです。

周辺遺跡
遺跡が栄えた年代
野洲川流域の歴史の流れのなかで、下之郷遺跡は、弥生中期の中頃(BC220年頃か)に巨大な集落として新しく誕生し、中期末(BC50年頃)に衰退していきます。
下之郷遺跡の実年代については、年輪年代分析や放射線炭素年代測定を併用し、できるだけ実年代に即して考えられるようにしています。出土した木製盾の年輪年代分析結果により伐採年代は紀元前200年頃とされ、また、土器に付着した炭化物の放射線炭素年代測定による年代は紀元前250〜230年頃の数字が提示されています。
下之郷遺跡が栄えたのは、九州の吉野ヶ里遺跡や近畿の池上曽根遺跡などとほぼ同じ時代です。弥生時代と言えば、邪馬台国や卑弥呼が思い浮かびますが、下之郷が栄えたのはそれにさかのぼること300〜400年前のことです。
古代中国の歴史書「漢書地理志」には、「この頃、倭国、分かれて百余国・・」と書かれている時代です。

歴史的意義−近江勢力の基盤を築いた環濠集落
【下之郷遺跡の変遷】
下之郷遺跡は近江を代表する環濠集落です。
近江盆地は水耕稲作に適した広大な土地がありますが、稲作の拡大につれ初期稲作に適した三角州から内陸側に広がって行きました。下之郷遺跡もその流れの中で、よりびわ湖岸に近い小津浜遺跡、寺中遺跡などから下之郷へ移ってきました。それも150年〜200年で衰退して直ぐ近くの播磨田東遺跡やニノ畦・横枕遺跡などの環濠集落へ移っていきます。
弥生中期後半ごろには、北部九州との交流が進み中国文明が流入したことにより、それまでの自然発生的で原始的な集落構造から脱却し、広域的な集団関係が成立していきます。そのような大きな社会変動の中で下之郷遺跡の大型環濠集落が出現したと考えられます。
各地の大型環濠集落を見ていると、そのような集落には大きな建物があり、首長がいたり交易が行われた場所でもあり、その地域の政治・経済拠点となっていました。小さなムラが大きなムラになり、それが統合されてクニになっていき、「漢書地理志」に書かれている「百余国・・」が、「魏志倭人伝」の30国に統合される前段階の時代です。
このような時代背景から、下之郷遺跡は近江を代表するクニの中核であったと考えられます。
【遺構・遺物から見えてくること】
ただ、それだけにしては説明のつかないことが多々あります。
環濠内部には掘立柱建物、壁立式建物しかなく、しかもかなり大型の建物が多い、また、日本でも大きな拠点集落にしかない独立棟持柱付き建物がありました。環濠も多重で規模の大きいもので、出入り口は厳重に守られています。環濠の外側にも居住域が見つかっており、それらを囲むもっと大きい外周環濠が巡っていた可能性もあります。
丁度この時期は、北部九州との交易が進展し鉄を始めとする大陸系文物が急速に流入してきて、大きな物流変革を生じ始めた頃です。 このようなことを考え合わせると、それまで野洲川下流域に住んでいた在地の首長たちが共同して巨大な集落を造り、内部に環濠に囲まれた交易センター、物流ネットワークのセンターを設けたのではないかと思われます。
下之郷遺跡からは祭祀に用いたと思われる人面を模したココナツ容器が見つかっています。他の遺跡では見られないもので、南方系の品物です。たまたま流れ着くようなものではなく、南方の商人がここまでやってきたことも考えられます。
また、他ではあまり見られない朝鮮に起源を持つ壁立建物が多く見つかっているのも特徴です。環濠内外から見つかっていますが、環濠内部に多くあります。朝鮮系の渡来人がかたまって住んでいたのかも知れません。
下之郷遺跡は、野洲川下流域を代表する拠点集落でだけではなく、近江南部あるいは近畿中部圏の交易センターであったと推測されます。
弥生時代中期後半から後期に移る大きな社会変革の過渡期を示すのが下之郷遺跡なのです。
【もっと広くこの地域を見てみると】
下之郷遺跡の歴史的意義を考察するために、当時の野洲川下流域全体を見てみます。
びわ湖東岸は、水稲農耕に適した土地で田の開発が進みお米の生産量が増えます。その結果、人口も増えそれが力になります)。
下之郷遺跡が栄える頃、この地特有の近江型土器が成立し、後期にかけて各地に拡散していきます。 近畿にとどまらず、山陰、北陸、東海、紀伊などに野洲川下流域の人たちの活動の痕跡が見られるのです。
また、近畿では他所に先駆けて大々的に玉作りを始めます。玉の原石がない所で、原石を取り寄せ、加工技術を入手し、祭祀や権威威示に必要な玉を作るのです。また、玉は貨幣の役割もしていました)。
これらの事実は、野洲川下流域にあったクニの力を示すもので、その拠点が下之郷遺跡なのです。
下之郷遺跡と弥生後期に近畿の中核となる伊勢遺跡を直接結び付ける証拠はありませんが、その基盤を下之郷遺跡が代表する野洲川下流域の人たちが作り上げたと考えられます。


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